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シェイクスピア 『十二夜』|河田園子演出

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しんゆりシアター『十二夜:お好きなように』

作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:河田園子
翻訳:松岡和子
出演:岡野真那美(ヴァイオラ)、佐古真弓(オリヴィア)、柳瀬亮輔(道化)、他
日時:2013年11月3日(日) 14:00開演 (千秋楽)
場所:川崎市アートセンター アルテリオ小劇場

<あらすじ>

双子の兄妹セバスチャンとヴァイオラの乗った船が嵐に遭い難破。ヴァイオラはイリリアの海岸に打ち上げられる。兄セバスチャンの消息が分からないまま、ヴァイオラは男装してシザーリオと名乗り、ここイリリアの公爵オーシーノにお小姓として仕えることにする。

公爵は伯爵の娘であるオリヴィアに求婚していたが拒まれ続けていた。そこで新たに小姓となったシザーリオ(ヴァイオラ)に、改めて自分の想いを届ける役を与え、オリヴィアの元へ遣わす。しかし使者としてやってきたシザーリオと面会したオリヴィアは、シザーリオに恋してしまう。ヴァイオラの男装により、オリヴィアは男性に見せかけて実は女性のシザーリオに恋し、ヴァイオラは男性として仕えながら公爵に恋心を寄せ、公爵はそのヴァイオラを小姓としてオリヴィア への使者とする、という複雑な関係ができる。

しかしそこへ消息不明だったヴァイオラの兄セバスチャンが生きて同じイリリアにたどり着き、外見がそっくりのシザーリオとセバスチャンの取り違えが起こって更なる混乱が起こると共に事態は急展開する。最後は全てが明らかになり、オリヴィアはセバスチャンを受け入れ、公爵はヴァイオラを受け入れて、めでたく 二組のカップルが誕生する。

<感想>

今回の公演は、道化(あらすじに挙げていないが登場人物の一人)にとても意識を置いていたのが印象的だった。道化を効果的に用い、そこから全体に祝祭ムードが広がって楽しい演劇となっていた。

道化のフェステはオリヴィアの家のお抱えの道化=ジェスター(シェイクスピアの時代のイギリスでは、宮廷や身分のある人の家では道化を抱えており、この道化を特にコート・ジェスターと言った。)であるが、今回の公演では、道化は舞台自体の道化、職業としての道化役=クラウンでもあることを意識して演出していた。

今公演では柳瀬亮輔さんという俳優さんが道化を演じているが、恐らく柳瀬さんは道化を職業としているわけではないと思う。(念のためHPを確認してみた。)しかし、シェイクスピアの時代においては、クラウン(道化)とは職業であり、様々な役をこなす俳優とは別であった。今回の公演でも、劇中でオリヴィア家お抱えの道化フェステを演じる道化が劇の前にクラウンとして現れ、飲食禁止であることや携帯の電源を切ることを観客に対しておどけてお願いし、そして最後に(正確なセリフは忘れたが)、「これから芝居が始まるよ。」と言って幕が上がった。オリジナルの台本には、フェステ役の道化が劇の前に登場することは書かれていないので、演出家が当時の道化のあり方を意識して付け加えたのだと思う。

道化というのは「ハレ=非日常・祝祭状況」を体現した存在である。道化的存在の歴史は古く、記録に残っているものだけでも紀元前5000年のエジプトにまで遡ることができるが、ヨーロッパにおいていわゆる「道化」のイメージのもととなったのは、特にフランスで盛んに行われた「道化祭」というキリスト教の修道院で行われた祭である。修道院の僧侶たちが一年に一度羽目を外して道化となり、“最下級の僧侶が最高の司教に選ばれ、釣香炉の代わりにソーセージを振り […] 祭文が後から逆に唱えられ” るという「あべこべ」のミサを行い、その後には “飲めや歌え、賭けごとや仮装行列” などの乱行が続いた。厳格な僧侶の日常を真逆にした祭である。観客はそれを大いに楽しんだため、この「道化祭」は教会を離れて様々な人々によって興行化され、巡業によって各地にそのイメージを広めていった(高橋16-7)。

今回の公演は、道化そのものだけでなく、それが体現するところの非日常・祝祭状況も含めて大切にして演出されていたと感じた。

例えば、この劇には上記のいわゆる「お姫様や王子様たち」の出てくるメインの筋の他にもう一つ、お姫様の侍女や叔父、その遊び仲間などコミカルな登場人物 による副筋があるのだが、そのメンバーが集まる場面で、真夜中に皆で音楽に合わせて踊る、楽しいドンチャン騒ぎが舞台上で繰り広げられていた。オリジナル の台本では騒ぐのは酔っ払った叔父とその友達だけで、侍女はそれをたしなめているので、これは演出家がその場面を「お祭り」的に改変したものである。また、メインの筋に出てくる「お姫様や王子様たち」は本来まじめな役どころであるが(筋はドタバタでも本人たちは至って真面目)、この公演では、演出なのか 役者の裁量なのか、「兄の喪に服するために男性との面会を一切断つ」と喪服姿でつれなく言いながらその舌の根も乾かぬうちにシザーリオに恋をして翌日から フリフリの服を着て花を摘み、懸命にシザーリオの気を惹こうとするオリヴィアが、愚かしくも愛すべき人間としておもしろくコミカルに描かれている。加えて、この劇では道化のフェステが歌を歌う場面が多いのだが、今回の公演では道化役の役者が楽器を弾くことができ、自ら楽器(ギター?)を弾いていたため、 その楽しさもぐんと増していた。主筋、副筋、道化、のそこここに、「非日常的な楽しさ」がちりばめられていた。

現代の私たちには、双子とは言え兄と男装したその妹を取り違えるとか、オリヴィアが男装したヴァイオラに恋をしておきながら見た目が同じというだけで全く 別人の兄と結婚するとか、実際は女性だったとは言え公爵が今まで自分のお小姓として仕えていた少年を妻として受け入れるとか、かなりめちゃくちゃな筋だ が、そうして劇全体が祝祭ムードに包まれているおかげで、全てを「だってラブ・コメディー(現代の意味での)だもの」と楽しく受け入れられる。地域の小さな劇場で、このようないい舞台を見ることができるとは思っていなかった。嬉しかった。

それで道化が大好きな私は、ここまで道化を意識して扱ってくれた演出家に対して、もしできるのならば、という欲が、二つ湧いた。

一つは、劇の最後、道化が舞台を締めくくる部分。この公演は最初に道化が幕を開けたように、最後も道化が幕を閉めて、枠物語(最初と最後に現実の世界があり、物語がその枠の中にあるような作品)のような体裁をとっている。最初の部分はオリジナルの台本にはないが、最後の部分はオリジナルにも載っている。道化が歌を歌い、最後2行のフレーズで「これで芝居はおしまい。」というような歌詞を歌い、芝居の世界から現実の世界へと戻して終わる。その2行とは、正確 には:

          But that’s all one, our play is done,
          And we’ll strive to please you every day.
                                                            (五幕一場406-7行) 

である。直訳してみると、「これで芝居は終わりだけれども、これからもみなさんを満足させられる(ような芝居を作る)ように日々奮闘します。」と言っている。

今回の公演では、正確には忘れたが、「これで芝居は終わりだよ。」というような感じでやわらかく丸く締めくくっていたと思う。これは訳者である松岡和子先生 の訳出不足・・・というわけではないと思うので、演出家が祝祭ムードを優先して敢えて外したか、あまり気にしなかったか、私が気にし過ぎか、どれかだと思うが、この2行を私が読むとどうしても “strive” という単語が気になってしまう。

ジーニアス英和大辞典によると、striveというやや固い言葉には、1. [正式]~しようと努力する、骨折る、励む という意味の他に、古い時代の使われ方として、2. [古] 戦う、抗争する [正式]奮闘する という意味がある。私は「奮闘する」と訳したが、恐らく当時、strive を「奮闘する」という意味で使っていたとしても、そこにはその時代のもう一つの用法「戦う、抗争する」という意味が語感として残ったと思う。

そう思ってこの2行を見ると、生々しい、とまでは言わなくても、芝居が終われば一役者となる登場人物、そしてその劇団の現実味の詰まった舞台裏の姿、恐らく当時の観客とそうした生の役者・舞台との距離の近さ、みたいなものが表れていて、興味深い。しかもそれを言うのが「道化」というのがまた良い。道化は先述の職業云々のくだりにもあるように、舞台の上では芝居の中でも外でも道化であり、役者なのか道化なのか、観客との距離があいまいな存在のはずだからだ。

現代では俳優は見る者に夢を与える存在で、その舞台裏や俳優と一般人(観客)との距離はずいぶんと遠い。 演出家がこの劇で道化が口にする “strive” という言葉をどう扱うか、できれば見てみたかった。

もう一つは、道化の「もう一つの役割」について。この劇には「お姫様や王子様たち」が出てくる主筋と、コミカルな登場人物が出てくる副筋とがあると前述し た。その二つの筋の間を自由に行き来しているのが道化:フェステである。道化フェステには祝祭の体現の他に、違う筋と筋の間を自由に行き来できる存在、 というもう一つの役割がある。

道化は誰からも何からも束縛されず、自由な存在である。だから、コミカルな登場人物たちが結束して執事マルヴォーリオをだまし、いじめて楽しんだ時も、発案の時にはその場にいたのに、いざ実行の場面ではフェステは登場せず、フェービアンという今まで出て来なかったオリヴィア邸の召使いがいきなり出てきて、 そこからマライア、サー・トービー、サー・アンドルーというコミカルメンバーと共にマルヴォーリオいじめが始まる。道化は誰からも束縛されない代わりに誰にも与しないのである。シェイクスピアがそれについてどの程度意識して書いていたのかは分からないが、そう考えれば説明がつく。

そしてここからは少し理論的になってしまうのだが、主筋にも副筋にも属せず、別の世界から突然現れたセバスチャン(消息のわからなかったヴァイオラの双子の兄)が劇の筋と合流できるのは、この道化の自由さのおかげである。

フェステは主筋と副筋の間を自由に行き来すると書いたが、つまり何からも縛られない道化は、どんな場所・世界・人との間も自由に行き来することができる。 フェステは劇の既存の筋に存在する登場人物の中で初めてセバスチャンと接する人物である。フェステがセバスチャンと出会い、ヴァイオラ扮するシザーリオと間違えることで、初めてセバスチャンは劇の筋に入れてもらうことができる。フェステがいなければ、(理論的には)セバスチャンはオリヴィアやヴァイオラの 存在する世界と合流できず、そしてヴァイオラ、オリヴィア、公爵の間のもつれた糸のような関係を解き、セバスチャン‐オリヴィア、公爵‐ヴァイオラという 二つのカップルの誕生の大団円を迎えることもできないのである。

しかし、今回の公演では、フェステとセバスチャンの出会いの場面が省略されていたような気がする(記憶が間違っているかもしれないが。観劇中「あれ?」と 思ったような覚えがあるのだが、なにしろ観劇後に読み返すまで、『十二夜』の原文自体もう10年以上読んでいなかったので、その場ではあまり自信がなく、 記憶もあいまいになってしまった)。どちらにしろ、ここまで道化にこだわった演出家が、この道化の「もう一つの役割」についてどのくらい意識していたか、 どう考えていたか、聞いてみたかった。

引用文献:

  • Shakespeare, William. Twelfth Night. Ed. J. M Lothian and T. W. Craik. Arden Third Series. London: Methuen, 2000.
  • “strive.” ジーニアス英和大辞典. 電子辞書. 東京: 大修館, 2005.
  • 高橋, 康也. 道化の文学: ルネサンスの栄光. 東京: 中央公論社, 1977.

  1. Twelfth Night(アーデン版): 『十二夜』の原文。シェイクスピアの作品(本)には「オーソライズド・テクスト」と呼ばれる「公式」な本とそうでないものがある。「アーデン」や「ニューケンブリッジ」がオーソライズド・テクストとして有名。『十二夜』はアーデン版の評価が高い。
  2. 小田島雄志訳『十二夜』: 『十二夜』の日本語訳本。今公演では松岡和子先生が意欲的に取り組んだ最新の訳本を使っているが、この分野の現役の第一人者、小田島雄志先生の翻訳はすでに評価が定まっており、誰もが安心して読める。多くの人に愛されている訳本。
  3. 高橋康也著『道化の文学』(絶版): 故高橋康也先生は日本を代表するシェイクスピア研究者。特にその深い道化の研究によって一分野を切り開いた。 

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