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ケン・ヒル版『オペラ座の怪人』:その1.本当はおもしろかった『オペラ座の怪人』

遅くなったが、昨年末に観劇したケン・ヒル版『オペラ座の怪人』について書く。

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ケン・ヒル版『オペラ座の怪人

テレビ東京開局50周年記念・テレビ東京/キョードー東京主催

形式:ミュージカル
作:ケン・ヒル
演出:マイケル・マクリーン
出演:ピーター・ストレイカー(怪人)、他
日時:2013年12月26日(木)19:00開演
場所:東京国際フォーラム ホールC
公式HP

<「ケン・ヒル版」オペラ座の怪人とは:その他の『オペラ座の怪人』との違い>

現在では『オペラ座の怪人』と言えばもっぱらイギリスの劇作家アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカルの代名詞だが、「今年の演劇」でも触れたとおり、もとの作品はフランスの作家ガストン・ルルーが、「パリ・オペラ座には幽霊が棲む」との噂を元に1919年に発表した同名の小説である。ウェバーの作品以外にも多くのミュージカル化・舞台化・映画化作品が存在し、本作ケン・ヒル版『オペラ座の怪人』は、その初のミュージカル化作品である(英語のタイトルにOriginal Stage Musical(=元祖ミュージカル)とあるのはそのため)。ケン・ヒル版は、イギリスで主にゴシック作品を戯曲化していた劇作家ケン・ヒルの手によって書かれ、1976年に初めて上演された。初演は失敗に終わったが、大幅な改定を行い1984年に再演、それが人気を博した。その2年後に発表されたウェバー版が世界的人気と知名度をさらってしまったが、実はウェバーはこのケン・ヒルのミュージカル(改訂版)から着想を得て自身のミュージカルを作成している。(これについて色々おもしろいことが分かったので後日別記事に書く。)つまり、ケン・ヒルがミュージカル化しなかったらあの有名なウェバー版は生まれていなかったのかもしれないのだ。

ちなみにウェバー版はDVDにもなっているし映画化もされているので(これもDVDがある)、興味のある方はぜひ。

 <あらすじ>

 19世紀末から20世紀初頭のパリ・オペラ座。次々と奇怪な事件が起きるオペラ座には幽霊がいると噂になっている。決して姿を現さない「幽霊」ファントムは、その崩れた醜い顔をマスクの下に隠し、誰も来ることのないオペラ座の地下の奥底の湖を住処としている。しかしある日端役を務めるクリスティーヌ・ダーエの歌声に恋をし、「音楽の天使」として彼女の前に姿を現す。ファントムはクリスティーヌに美声を授ける一方、邪魔者を殺し、人々を恐怖に陥れ、ついにクリスティーヌをオペラ座プリマドンナに据えることに成功する。ファントムはクリスティーヌにこの見返りとして自分の愛を受け入れることを要求する。だがクリスティーヌは恋人ラウルとの愛を取り、ファントムの恋は実らずに終わる。

<感想:その1.本当はおもしろかった『オペラ座の怪人』>

感傷的でドラマチック、シリアスなウェバー版『オペラ座の怪人』が極めて現代的な作品であるのに対し、ケン・ヒル版は、古典的でユーモアにあふれた楽しく温かい作品である。

ウェバー版は、主な登場人物をファントム、クリスティン(ケン・ヒル版ではクリスティーヌ)、ラウルの三人に絞ることで、シンプルで感情移入のしやすいメロドラマに仕立てている。一方、ケン・ヒル版はその三人以外にもオペラ座の新支配人でラウルの父親リシャード、その秘書 レミー、座席主任のマダム・ジリー、バレリーナのジャム、謎のペルシャ人など、多くの登場人物が置かれ、それぞれが個性的に描かれている。そしてウェバー版の登場人物が皆「まじめ」であるのに対し、ケン・ヒル版の登場人物はどこかみんな「可笑しい」。

ウェバー版でクリスティンを勇ましく守るヒーロー、ラウルは、ケン・ヒル版ではかなり頼りなく、ヒーローとは程遠い。クリスティーヌを救う手だてを考えようと「考える人」のポーズをとってみるものの、元来考えることが苦手な彼はしばらくポーズを取るだけで終わり。リシャードは新支配人として皆からの尊敬を期待する一方、語彙に乏しいために、いつもしっかり者の秘書レミーに言葉をついでもらわなければ自分の考えをうまく表現することもままならない。ウェバー版で厳格なバレエ指導者であるマダム・ジリーは、ケン・ヒル版では厳格というよりは変わり者で癖のある女性。ポットとティーカップを持って現れ、何をするかと思えば「紅茶占い」をし始める。謎のペルシャ人が現れ登場人物の個性がますます濃くなっていく中、バレリーナのジャムはなぜか常にバレエ・ダンスをしていてマイペース。

こうした古典的な人物造形を「古臭い」と言う人もいるかもしれない。だがオペラ座が、彼ら個性的な「オペラ座の人々」の集う場所であるからこそ、ケン・ヒル版では舞台であるオペラ座自体、ひいては作品そのものが愛すべき魅力的な存在となっている。

そこに言葉遊びやユーモアが、さらに全体を古典的で牧歌的な楽しさで包む。 “見ろ!衣服にメモが縫いつけられている!” “何て書いてある?” に、 “シルク100%と書いてあります。” と答えるのはお約束(22 拙訳、以下同)。またリシャード、ラウル、ペルシャ人の三人が迷路のようなオペラ座の裏通路を通って怪人を追い、思いがけずボイラー室に出た際、 “おや、これは古いボイラーじゃないか。” というリシャードの第一声には、緊迫した場面であるはずにも関わらず思わず笑ってしまう。リシャードの目の前には照明係を探しに来ていたマダム・ジリーがいて、英語で「古いボイラー」は「魅力のない婆さん」という意味になってしまうからだ。そして後に続く二人に “大丈夫だ。マダム・ジリーだよ。” とリシャードが呼びかけると、ラウルが “マダム・ジリーだよ、ってどういうこと?最悪ってこと?” とだめ押しをする(83)。その変わり者で嫌われ者のマダム・ジリーは、後半、リシャードのちょっとした優しさに初々しくときめいてしまう。思いもよらないカップルの誕生に、客席全体に笑いと温かさが広がる。

また、舞台と客席との間に「対話」があるのも古典的である。今公演の会場は東京国際フォーラムホールCだったが、会場をオペラ座に見立て、支配人として新しく着任したリシャードが舞台から会場全体を見渡し、 “私はずっとパリ・オペラ座というのは、もっと、何と言うか…もっと[大きい]と思っていたんだが。” と感想を述べると、その「オペラ座」の客席にいる観客は苦笑せずにいられない。またリシャードと、彼にオペラ座を案内する係員が、 天井のシャンデリアについて、“このシャンデリアはなんだか取り付けがしっかりしていないように見えるが。 […] 落ちるなんてことはないだろうね?” “落ちる?我がオペラ座のシャンデリアが?…つまりそこの座席あたりに?” “うむ。恐らくその辺や ― あの辺や ― もしかしたらあの辺にまで届くかもしれない。” と杖で客席を指しながら会話をすると、指された位置に座っている観客は何とも言えない気持ちになる。そして秘書レミーが「でも安い[2階席・3階]席の人は無事ですね。」と言うと、観客はもう大笑いだ。 特に私が観劇した日には2階席に秋篠宮妃殿下、眞子内親王佳子内親王がいらっしゃっていたので、 “cheap seats” を字幕で「安い2階席」と訳していたのは憎い演出だった(実際は2階席のほとんどはS席)(4)。

舞台と観客がもっとも「対話」する場面は、オペラの上演中に突然消えたクリスティーヌを探す場面だ。暗がりの中、「オペラ座の人々」が次々に客席に降りてきて、ランタンを手に「オペラ座」中を総出で探す。とは言えこうした演出は現代の劇場だからできることだ。役者と観客の距離が近く、「対話」が当たり前のように行われていた16世紀、17世紀の劇場と言えば屋外劇場だった。座席も今のように整備されていなかったから、このように役者が観客の間を探すような演出は実際は恐らくできなかったのではないかと思う。しかし観客を、本当にその場に居合わせた「オペラ座の観客」のような気分にさせるこのような演出は、舞台と観客との「対話」の伝統を大切にする作家の姿勢を感じさせる。そしてこうした「対話」は「見せる」ウェバー版の作品には見られない。メガ・ヒットのウェバー版が「ハリウッド映画的」とも言えるのに対し、ケン・ヒル版は、大らかで明るく魅力的な人物造形、劇全体にちりばめられた言葉遊びやユーモア、そして舞台と観客との「対話」が、シェイクスピアの喜劇を彷彿とさせる。

ウェバー版の大きな魅力の一つは、その美しい音楽にある。観劇後、劇場を後にする人々は自然とそのメロディーを口ずさんでしまう。一方ケン・ヒル版の音楽は、作品の舞台となっている19世紀末から20世紀初頭に実際に上演されていたオペラの曲を採用し、それにケン・ヒルが詞を付けている。グノー、ヴェルディモーツァルトなどの曲が、その時代のオペラ座の雰囲気を舞台に与える。が、ウェーバー版と違って観劇後にその音楽を口ずさむ人はあまりいそうにない。それについてケン・ヒルは、1991年のスポーケン・クロニクル紙(アメリカ・ワシントン州の地方紙)の取材の中でこう述べている:

私は敢えて、良く知られているような曲は選ばないようにした。[…] ストーリーよりも [曲の方に] 気を取られてしまうようにはしたくなかったんだ。 [私の作品の] 曲はオペラ好きには分かるかもしれないが、ほとんどの人にとってはあまり耳馴染みのない曲だ。

ウェバー版が、観劇後、その美しい音楽が耳に残る作品だとすれば、ケン・ヒル版は、楽しさと温かさが心に残る作品であった。

(続く)

<引用文献>

<書籍・DVD>

ケン・ヒル版ミュージカル『オペラ座の怪人』 原文本
(訳本やDVDはない。CDも来日公演のたびにグッズとして限定販売されるのみ。)


アンドリュー・ロイド・ウェバー版ミュージカル『オペラ座の怪人
・25周年記念ロンドン公演DVD(日本語字幕付き)
・『完全版「オペラ座の怪人」25周年記念版』(洋書)最新版の台詞と歌詞全てを含む原文と、作品の背景、解説、写真などを掲載。

原作となった小説:ガストン・ルルーオペラ座の怪人』平岡敦訳(2013新訳)・長島良三

 

※2018年4月15日 8月に再来日公演が行われるのを機会に記事を少々改定した(内容は変更していない)。

 

2月の観劇予定

「今年の演劇どれを見る?」リストからは、「世界は舞台、男も女もみな役者」の台詞が有名な『お気に召すまま』文学座公演(『9days Queen』は3月)。

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文学座『尺には尺を』『お気に召すまま』

形式:ストレート・プレイ
2014年2月11日-3月4日・あうるすぽっと
作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:小田島雄志
演出:鵜山仁・髙瀬久男
料金:全席指定6,000円(その他割引あり)
公演スケジュール: 文学座サイト内ページ
チケット:文学座チケット専用電話0120-481034(10時~17時30分/日祝を除く)・e+(席選択可)
座席表会場アクセス
公式HP

『お気に召すまま』

フランス。とある公爵領では、公爵の実の弟フレデリックが公爵領を簒奪。追放された公爵は、自分を慕う従者を連れ、アーデンという名の森の中で暮らしている。簒奪者フレデリックは、公爵の娘ロザリンドにだけは慈悲を与え、自身の娘シーリアと共に自分の屋敷に住まわせてきたが、ロザリンドの美徳に次第に彼女をも疎ましく思うようになり、とうとう追放を言い渡す。しかしロザリンドを姉妹のように慕うシーリアがロザリンド一人では行かせられないと言い、二人はこっそり一緒に屋敷を出る。ロザリンドは男装を、シーリアは村娘の姿をし、身分を隠した二人は、屋敷のお抱え道化を道連れにロザリンドの父である公爵のもとへと、アーデンの森へ向かう。

一方、同じ領地内の貴族、サー・ローランド・ド・ボイスの息子たちの間にも同様の不和があった。父亡き後、家督を継いだ長兄のオリヴァーは、人々の尊敬を集める末弟オーランドーを妬んでいた。長年兄から虐げられてきたオーランドーは我慢がならなくなり、兄オリヴァーの屋敷を出る。が、彼がたどり着いたのもまた、偶然アーデンの森であった…

シェイクスピア中期喜劇の代表作で、美しいアーデンの森を背景に、明るく楽しいラブコメディ。シェイクスピアは多くの作品の中で異なる空間をうまく使い分けているが、本作は他の作品ほどはっきりと分かれてはいないものの、やはり「王子様・お姫様」たちの主筋と、羊飼いたちの副筋という同時進行の二層の空間が見られる。また本作ではさらにアーデンの森の「中」と「外」に対比的な二つの社会(空間)が形成されているのが注目点である。本作の筋の中心に据えられた「取り違え」もまたシェイクスピア喜劇の常套手段であるが、この「取り違え」が本作では一番の魅力となっている。「取り違え」がどのように起こり、展開するのか、そして「森での暮らし」という、牧歌的でありながら永遠には続けられない暮らしとともにどう回収されていくのか、シェイクスピア喜劇の特徴が見事に凝縮された本作は見どころが多い。また、四大悲劇で発展した「妬み」のモチーフが、本作品にも見られる。

今公演では恐らくロザリンド・シーリアともに女優さんが演ずると思われるが、実はシェイクスピアが生きていた16世紀当時は、ロザリンド・シーリアのような、男装する若い女性の役には、顔かたちの美しい少年を起用していた。今で言えば、10代前半のジャニーズの美少年が若い女性役を演じるようなもので、それが当時の女性客の人気を集めていた。

『尺には尺を』

ウィーン。公爵ヴィンセンシオは、思うところがあり、国外へ旅に出るふりをして、その間、アンジェロに公爵としての全権を預け、自分の代理を務めさせる。

厳格なアンジェロは、早速長年使われず実質的に効力のなくなっていた法律を有効にし、その見せしめとなったのがクローディオだった。クローディオは婚約者ジュリエットと婚前交渉を持ち妊娠させたことで姦淫の罪に問われ、死刑を言い渡されたのだ。クローディオの妹イザベラは尼になるため修道院にいたが、兄の危機を聞いて、アンジェロのもとへ兄の命乞いに行く。

イザベラの嘆願を聞き入れず、血も通わないと思われたアンジェロであったが、イザベラのあまりの清純さに邪な欲望を抱くようになり、イザベラにクローディオを救う方法が一つだけあると言う。アンジェロの提案とはなんと、クローディオの命を救う代わりに、イザベラに自分に貞操を差し出せというものだった…

シェイクスピア後期の喜劇。同時上演の『お気に召すまま』とはだいぶ毛色が異なる作品。後期に入り、喜劇にそうしたのびしろがあったのかとうならされるほど、シェイクスピア喜劇は複雑さと深みを得る。常套手段の「取り違え」も、全く形を変えて現れる。「喜劇」とは本来、幸せな結末を迎える劇のことを指すが、果たしてこれを「喜劇」と呼べるのか。悲劇全盛期前夜のこうした後期喜劇は、「問題劇」と呼ばれている。

リスト外からはオペラ『蝶々夫人』を観劇予定。※所用で行けず。

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蝶々夫人

形式:オペラ
2014年1月30日-2月8日・新国立劇場
作:ジャコモ・プッチーニ
指揮:ケリー=リン・ウィルソン
演出:栗山民也
出演:アレクシア・ヴルガリドゥ(蝶々夫人)、ミハイル・アガフォノフ(ピンカートン)
料金:S21,000円・A15,750円・B10,500・C6,300・D3,150・Z1,500
チケット:Webボックスオフィス(ぴあ)
座席表(PDF)アクセス
公式HP

私はオペラについては素人だが、日本人なら『蝶々夫人』と『夕鶴』は観ておいてもいいと思う。

オペラ『蝶々夫人』は、日本の長崎を舞台に、没落藩士の令嬢で今は芸妓となった「蝶々さん」と、任務で長崎に来たアメリカの海軍士官ピンカートンの悲恋の物語。イタリアの作曲家プッチーニ作(1904年)。

原作はアメリカの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年に発表した短編小説とされている。ロングは宣教師の夫と共に日本を訪れた姉から聞いた話とフランスの作家ピエール・ロティの『お菊夫人』(1887)をもとに小説を書いたそうだが、プッチーニもこの『お菊夫人』も参考にしているそう。『お菊夫人』は、ロティが自身の経験をもとに異国情緒あふれる日本での暮らしを微に入り細に入り記した小説で、当時のヨーロッパではかなり人気があったらしい。1854年にペリーによって開国がなされて以来、日本は開国から数十年経っていたが、まだまだ一般の人々が極東の異国日本について知る機会は乏しく、ミステリアスで魅惑的だったのだろう。というか、これだけ情報網が整った現代においても欧米人にとって日本と言えば「スシ・ゲイシャ・ハラキリ」なのか、演出家によっては蝶々さんが切腹してしまうこともあるらしい(後藤 81参照)。今回日本人である栗山民也さんがその『蝶々夫人』をどう演出するのか、興味深い。

また観劇という観点から、『蝶々夫人』を観ておくと、それをベースに舞台を日本からベトナムに移したミュージカル『ミス・サイゴン』がより楽しめる。・・・と思ったら今年7月・8月に『ミス・サイゴン』が帝国劇場で上演されるらしい(帝国劇場HP)。

[新国立劇場]

ちなみに新国立劇場では「当日学生割引」として、学生はチケットを半額で購入できる。

公演当日朝10:00から、残席がある場合のみ、ボックスオフィス窓口とチケットぴあ限定店舗にて販売いたします。1人1枚。電話予約はできません。要学生証(生徒の方は年齢証明ができるもの)。

残席状況によっては半額で舞台かぶりつきの最良席から演劇が見られるので演劇学生にはとてもありがたい制度。私も学生時代ずいぶんお世話になった。

学生以外には「Z席」というものがあり、座席数限定でどの公演でも1500円で観ることができる。ただし舞台が見え難い席とのこと(私は買ったことがないのでどの程度見え難いのか分からない)。

オペラ・バレエ公演:
オペラパレス公演の場合、Z席42席は、公演初日に先がけて全日程各20席を新国立劇場Webボックスオフィス(PC&携帯)にて抽選販売いたします。抽選販売の残席と22席を公演当日朝10:00から新国立劇場ボックスオフィス窓口にて販売いたします。電話予約はできません。 ※オペラ・バレエの中・小劇場公演も、販売方法は同様となります。枚数は公演によって異なります。 ※オペラ公演では、上記42席を販売後、3階L1-1,2および3階R1-1,2の計4席を販売します。いずれも1人1枚。

ダンス・演劇・研修所(オペラ・バレエ・演劇)公演:
公演当日朝10:00から新国立劇場ボックスオフィス窓口にて販売いたします。1人1枚。電話予約はできません。

(いずれの引用も新国立劇場HP内「チケットについて」より)

国立の劇場でこのように劇場への敷居を低し裾野を広げようという活動をしているのはとても好感が持てる。

国立劇場が日本の伝統芸能を上演しているのに対して、新国立劇場は主に海外のオペラや演劇(小劇場もある)を上演しているが、さすが国立だけあって、いつも演目の質が安定している。建物も現代的でありながら特に夜は美しく、終演後に余韻に浸れる。ここも私の好きな劇場の一つ。

<書籍>

 シェイクスピア『お気に召すまま』原文(アーデン版)・和訳本(小田島雄志訳)

オペラ『蝶々夫人』対訳本

オペラ入門書:筆者参照は左。
どちらも作品ごとに写真付きであらすじ、見(聴き)どころ、名演などが見開き2ページ程度に要領よくまとめられている。筆者が参照したような(切腹の演出)ちょっとした小話なども載っている。

2014今年の演劇どれを観る?: 怪人vsエリザベス朝

今年はオペラ座の怪人「エリザベス朝」この2つの年である。

オペラ座の怪人

ケン・ヒル版『オペラ座の怪人』が昨年末に9年ぶりの来日公演を行った。(紹介が公演終了後で申し訳ない。)

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ケン・ヒル版『オペラ座の怪人

形式:ミュージカル
12月19日-29日・国際フォーラムホールC
作:ケン・ヒル
演出:マイケル・マクリーン
出演:ピーター・ストレイカー(怪人)他
料金:S10,000円・A8,000円・B6,000円
公演スケジュール:公演終了
公式HP

そして『オペラ座の怪人』の10年後を描いた、アンドリュー・ロイド・ウェーバーの新作ミュージカル『ラブ・ネバー・ダイ[ズ]』が3月から4月にかけ日本で初上演される。

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『ラブ・ネバー・ダイ』

形式:ミュージカル
2014年3月12日-4月27日・日生劇場
作:アンドリュー・ロイド・ウェーバー
出演:市村正親/鹿賀丈史(ファントム・Wキャスト)、他
料金:S13,000円・A9,000・B4,000
公演スケジュール(公式サイト内ページ)
チケット:ホリプロチケットセンター03-3490-4949・ローソンぴあe+
座席表会場アクセス
公式HP

あとアーサー・コピットというまた別の人の『オペラ座の怪人』、『ファントム』という作品(これもミュージカル)まであって、9月に上演されるらしい。(後日発見)

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『ファントム』―もう一つの"オペラ座の怪人"

形式:ミュージカル
2014年9月13日-29日赤坂ACTシアター、10月梅田芸術劇場
脚本:アーサー・コピット
作詞・作曲:モーリー・イェストン
演出:ダニエル・カトナー
出演:城田優、他
料金:未定
チケット:発売前
座席表会場アクセス
公式HP(先行情報・メルマガ申し込み可)

オペラ座の怪人』と言えばもっぱらイギリスの劇作家アンドリュー・ロイド・ウェーバーのミュージカルの代名詞だが、もとの作品はフランスの作家ガストン・ルルーパリ・オペラ座の幽霊の噂をもとに1919年に発表した同名の小説。様々な人によりミュージカル化・舞台化・映画化されているが、ミュージカル化は上記イギリスの劇作家ケン・ヒルが1976年に初めて行い、1984年の再演で人気を博した。アンドリュー・ロイド・ウェーバーは実はこのケン・ヒルの作品から着想を得て作成、1986年に発表して世界的人気をさらった。(後日アーサー・コピットについてちょっと調べたところ、この人はウェーバーとほぼ同時期に制作したが、ウェーバーが先に出して売れたため苦労したらしい。)

そして2010年、ウェーバーは『オペラ座の怪人』の10年後の物語として、オリジナルミュージカル『ラブ・ネバー・ダイズ』を発表。それが今年、市村正親鹿賀丈史のWキャストにより、日本で初上演される。

ちなみにウェーバーの『オペラ座の怪人』『ラブ・ネバー・ダイズ』は共にロンドン・キャストによる公演を収録したものがDVDで販売されている。(2012年、2011年。『オペラ座の怪人』は2011年にロイヤル・アルバート・ホールで行われた25周年記念特別公演を収録したもの。豪華なキャスト、壮大なステージは圧巻。)

DVD(日本語字幕付き):『オペラ座の怪人』『ラブ・ネバー・ダイズ』

<エリザベス朝>

エリザベス朝というのはイギリスで1558年から1603年まで続いた女王エリザベス一世の治世のことだが、今年はどうかしたのかと思うくらい関連の演劇がてんこもりである。

2月末から3月中旬にかけて、エリザベス朝前夜の女王レディ・ジェーン・グレイを描いた『9 Days Queen』、

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『9days Queen:九日間の女王』

形式:ストレート・プレイ
2014年2月26日-3月16日・赤坂ACTシアター
作:青木豪
演出:白井晃
音楽:三宅純
出演:堀北真希上川隆也、他
料金:S11,500円・A9,500
公演スケジュール(公式サイト内ページ)
チケット(席指定可):ACTオンラインe+
座席表会場アクセス
公式HP

4月から5月にかけて、長きに渡り繁栄のエリザベス朝を築いたエリザベス一世を描くミュージカル『レディ・ベス』が上演される。

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『レディ・ベス』

形式:ミュージカル
2014年4月13日-5月24日・帝国劇場
作:ミヒャエル・クンツェ
演出:小池修一郎
音楽:シルヴェスター・リーヴァイ
出演:平野綾花總まり(レディ・ベスWキャスト)他
料金:S13,000円・A8,000・B4,000
公演スケジュール(東宝サイト内ページ)
チケット:東宝テレザーブ03-3201-7777・ぴあe+
座席表会場アクセス
公式HP

ヘンリー八世亡き後、エリザベス一世即位までの約10年間のイギリスは、大人たちの政治的策略と権力争いに若き王・女王たちが利用・翻弄され、またカトリックプロテスタントの宗教対立に民衆が揺れ動いた荒廃と混乱の時代である。『9days Queen』のヒロイン、わずか16歳で女王となったレディ・ジェーンもその中で犠牲になった。その荒廃のイギリスを安定させ長い繁栄に導いた「ヴァージン・クイーン(処女王)」エリザベス一世もまた大人たちの政治に巻き込まれて波乱に満ちた若き日々を送った一人である。25歳で即位。なぜ生涯独身を宣言し、貫いたか、政治にどのような態度をとったのか、女王の生涯がまた興味深い。

そしてエリザベス朝といえば史上最高の劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの活躍抜きには語れない。エリザベス女王は演劇好きであり、それがシェイクスピアの活躍を後押しした部分があるので、もし女王自身に聞けたとしても私と同じ意見を言うと思う。時代と才能が合致して至上の演劇が生まれた。

2月から3月初頭にかけて文学座が「シェイクスピア祭」と称し、後期の喜劇であり「問題劇」と呼ばれる『尺には尺を』と喜劇の代表作の一つ『お気に召すまま』を上演、

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文学座『尺には尺を』『お気に召すまま』

形式:ストレート・プレイ
2014年2月11日-3月4日・あうるすぽっと
作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:小田島雄志
演出:鵜山仁・髙瀬久男
料金:全席指定6,000円(その他割引あり)
公演スケジュール(文学座サイト内ページ)
チケット:文学座チケット専用電話0120-481034(10時~17時30分/日祝を除く)・e+(席選択可)
座席表会場アクセス
公式HP

また3月後半には四大悲劇の一つ『リア王』を題材にしたと思われる『荒野のリア』が「ティーファクトリー」という劇団(?)により上演される。

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『荒野のリア』

形式:ストレート・プレイ
2014年3月13日-24日・吉祥寺シアター
W.シェイクスピア生誕450年/吉祥寺シアター シェイクスピアシリーズ
原作:ウィリアム・シェイクスピア(松岡和子訳)
構成・演出:川村毅
出演:麿赤兒、他
料金:前売4,800円・当日5,000円(公演初日4,000)
公演スケジュール(TFactoryサイト内ページ)
チケット: 武蔵野文化事業団ぴあe+
座席表会場アクセス
公式HP

<どれを観るか>

最初『ラブ・ネバー・ダイ』をロンドンキャストのDVDで済ませることを考えてみたが、やはり日本初公演を観られるのにみすみす見逃すのは惜しい。そして市村正親さんが長年日本の『オペラ座の怪人』でファントム役を務めてきたことを思うと世代交代してしまう前に観たい。

『9 Days Queen』は日本人劇作家による新作だが、悲劇の若き女王レディ・ジェーンと堀北真希さんの物憂げな美しさの組み合わせは観てみたい。

『レディ・ベス』は、エリザベス一世の生涯の興味深さは上述の通り。しかもミヒャエル・クンツェ(というドイツの有名翻訳ミュージカル作家でありミュージカル作家。『エリザベート』を手掛けた人。)の新作で、なんと「世界初公演」。

『尺には尺を』と『お気に召すまま』は、小さな劇団などでもよく上演を見かける作品だが、それを文学座が上演するとなれば話は別で、歴史ある劇団が演ずるシェイクスピア劇を観たい。『尺には尺を』は演劇通と大人向け、『お気に召すまま』は初心者とラブ・コメディーが好きな人向け。

『荒野のリア』上演の「ティーファクトリー」というのは良く知らないが(「川村毅新作戯曲プロデュースカンパニー」とのこと)、『リア王』は四大悲劇の中でも美しい作品なのに上演を見かけるのは意外と少ない気がするのでこれも観たい。またシェイクスピアは自身の劇の中で道化を多用し、古来からの道化のあり方を飛躍的に進歩・発展させたが、中でもそれまでコメディーの存在だと思われていた道化を悲劇に登場させた『リア王』の道化は傑作である。

というわけで、やはりどれも観たいので悩む。

<書籍・DVD>

小説ガストン・ルルーオペラ座の怪人』平岡敦訳(2013新訳)・長島良三

ケン・ヒル版ミュージカル『オペラ座の怪人』 原文
(訳本やDVDはない。CDも来日公演のたびにグッズとして限定販売されるのみ。)

DVD: アンドリュー・ロイド・ウェーバー  ミュージカル
オペラ座の怪人』25周年記念ロンドン公演
『ラブ・ネバー・ダイズ』オーストラリア公演
(共に日本語字幕付き)

アーサー・コピット版ミュージカル『ファントム』原文
(訳本・DVD共になし)

シェイクスピア 
『尺には尺を』『お気に召すまま』『リア王』原文 いずれもアーデン版

和訳本: 小田島雄志訳  『尺には尺を』『お気に召すまま』、福田恒存訳『リア王』。悲劇は福田訳が良いような気がする。

  

※書籍/DVDのリンクは手間やトラブルを避けるためにアフィリエイトを使っています。嫌な方は検索し直して買ってください。

1月の観劇予定

1月は残念ながら観劇はお休み・・・。観た方感想をお聞かせください。

<観たかった劇>

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『Tribes:トライブス』

世田谷パブリックシアター/シアタートラム
2014年1月13日-26日・新国立劇場小劇場
作:ニーナ・レイン
翻訳・台本:木内宏昌
演出:熊林弘高
出演:中嶋朋子、他
料金:全席指定A6,500・B4,000(2階ギャラリー席)
公式HP

『Tribes』は、先鋭的な作品を数多く生み出すことで世界的に有名なロンドンのロイヤルコート劇場で、2010年10月に初演された作品です。その後、オフ・ブロードウェーでも上演され、高い評価を得ています。

公式HPより)

私は主に英・米の演劇に興味を持っているが、このように小さな新作がほぼリアルタイムで日本で上演されるのは珍しい。また出演者に中嶋朋子さんがいらっしゃるが、このような小規模の劇場で実力のある俳優さんの演技を間近に観られるのはまさに演劇の醍醐味の一つ。とても観に行きたかった。

[世田谷パブリックシアター]

ちなみに世田谷パブリックシアター(同名の劇場での上演だけだと思っていたが、今回のように他施設で上演されることもあるとは知らなかった。)はいつも演目の選定が良く、私の好きな劇場の一つ。2002年から10年以上野村萬斎さんが芸術監督を務めており、萬斎さん演出・出演の演劇が観られるのも魅力。以前高橋康也作、野村萬斎演出・出演の『間違いの狂言』という、シェイクスピアの『間違いの喜劇』を狂言化した演劇を観たが素晴らしかった。今年3月にも、野村萬斎さん演出・出演の戯曲『神なき国の騎士―あるいは、何がドン・キホーテにそうさせたのか?』が上演される予定。
世田谷パブリックシアターHPはこちら

<観てもいいかなと思っていた劇>

ヴェニスの商人』・『ポーシャの庭』 

2014年1月8日-19日・下北沢「劇」小劇場
東京シェイクスピアカンパニー
作:ウィリアムシェイクスピア(『ポーシャの庭』は江戸馨)
翻訳・演出:江戸馨
作曲・演奏:佐藤圭一
料金:各3,800円
公式HP

ヴェニスの商人』は、ユダヤ人の高利貸し「シャイロック」が有名な、シェイクスピアの喜劇。円熟期喜劇の人物造形を存分に楽しめると共に、分かりやすい筋・現代にも通じる内容で、初心者にも通にも人気の作品。

シェイクスピアなどの古典や有名作品は小規模の劇団でもよく上演される。この公演は規模の割に少し高いが、通常2,000-3,000円という手ごろな値段で観ることができるので、初心者が内容を知るのにもいいし、演劇好きが様々な解釈・演出を観比べるのにも良い。私も好きな演目がかかっていると観に行ってみるが、先日の『十二夜』のように時々とてもいい演出が観られると嬉しくなる。

「東京シェイクスピアカンパニー」を知らなかったのでHPを調べたところ、江戸馨さんという方が主宰し、シェイクスピア作品を上演したり、朗読/勉強会を開いたり、関連戯曲を作ったりしているらしい。

年に1回ないしは2回の本公演を行っている。本公演の大きな柱は2つあり、一つはシェイクスピアのストレート・プレイ、もう一つ は’鏡の向こうのシェイクスピア’シリーズと題し、シェイクスピア劇を題材にしたオリジナル戯曲の上演 

とのことで、主宰の江戸さんは独自の視点で新解釈を開拓しようというかなり意欲的な方のよう。『ポーシャの庭』は、江戸さんのオリジナル作で、「『ヴェニスの商人』の続編」とのこと。

<本>

原文:ニーナ・レイン作『トライブス』、シェイクスピア作『ヴェニスの商人』アーデン版

日本語訳本:小田島雄志訳『ヴェニスの商人』(『トライブス』の訳本は現在のところなし)

『Mama, I Want to Sing』|ゴスペルミュージカル 

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『Mama, I Want to Sing: The Next Generation』

作:ヴァイ・ヒギンセン、ケン・ワィドロ
作曲:ウェスリー・ネイラー
出演:ヴァイ・ヒギンセン(ナレーター)、ノエル・ヒギンソン(ドリス・ウィンター)、ゴスペル・フォー・ティーンズ聖歌隊、他
日時:2013年12月18日(水)・19:00開演
場所:アミューズ・ミュージカル・シアター

<内容>

1960年代‐70年代にアメリカで活躍した実在の黒人歌手ドリス・トロイ(ウィンター)が、ニューヨーク・ハーレムの教会の聖歌隊からスター歌手になるまでの伝記的ミュージカル。 作者ヴァイ・ヒギンセンはドリス・ウィンターの妹(ケン・ワィドロはヴァイの夫)。公演30周年を記念してThe Next Generation(次世代)と銘打った今作は、1980年初演から続いているこの作品の「世代交代」という意味で、作者ヴァイの娘(=ドリス・ウィンターの姪)であるノエル・ヒギンソンがドリス・ウィンター役を務める。また、出演の「ゴスペル・フォー・ティーンズ聖歌隊」とは、ヴァイがニューヨーク・ハーレムの若者対象に無償で提供している「ゴスペル・フォー・ティーンズ」という音楽教育プログラムで学ぶ300人の中から選抜されたメンバーで構成している(パンフレット [3])。

<感想>

まず、作品の構成が興味深い。登場人物として、物語の外側にラジオのDJがおり、ブースに入ったそのDJが「次に~を見てみましょう」、「~をご覧に入れましょう」と導いて、時代時代のエピソードをミュージカルで見せるという形で、劇を進行させていく。ナレーターとドキュメンタリー映像で構成される、テレビのドキュメンタリー番組を見ているような感覚を覚える。DJ役をドリスの妹、ヴァイが務めているが、実の妹が作者となりナレーター役となり、「真の実話」を作っている(という自負がある)からこそミュージカルというフィクション(創作作品)でありながらこうした構成を取ることに説得力があるのだと思う。

ドリス・ウィンターの歌の原点は教会の聖歌隊(教会の合唱隊。礼拝で神・キリストを讃える聖歌を歌う、あるいは参列者全員で歌う時にリードする。)にあるという。その原点を作者のヴァイは―恐らくドリス自身も―大事にし、この作品のシーンの多くを教会においている。DJのセリフによれば、ドリスだけでなく、ホイットニー・ヒューストンなど、他の多くの黒人スター歌手たちも、子供の頃に教会の聖歌隊に入っていたという。

このミュージカルの音楽は「ゴスペル」というジャンルに入るらしい。今公演のパンフレットは、“ゴスペルとはもともと黒人が神に捧げるために歌った教会音楽がルーツ。讃美歌と共に祈り、想いを込めて熱狂的に盛り上げて歌う文化は日本にはなかったもの” と説明し、この『Mama, I Want to Sing』が “[80年代後半の日本での]ゴスペルブームの火付け役ともなった” としている([12])。また80年代にニューヨークでこのミュージカルを観たという三宅祐司さんは、『Mama, I Want to Sing』を “ゴスペルミュージカル”と呼び、そのゴスペル音楽について、“オープニングから取り肌の連続だった。白人の美しい声のミュージカルに比べ黒人のミュージカルにおけるその声は、そのままストレートにハートに来る。” と感想を述べている([2])。

音楽に詳しくない私は現代における「ゴスペル(音楽)」の定義がよく分からず、R&Bなど他の黒人音楽とどう違うのか分からないのだが、ゴスペルの本来の意味は、語源が god spel (=神の言葉)であることでも分かるように(The Oxford English Dictionary)、第一義に “キリストの教え” で、もともとのゴスペル・ミュージックとは “アメリカの黒人が歌う、熱狂的な歌い方のキリスト教宗教歌のスタイル。南部バプティスト教会やペンテコスタル教会で歌われた、スピリチュアル[と呼ばれる、奴隷制時代が起源とされる黒人の宗教歌]から発展したもの” である(The Oxford Dictionary of English 拙訳)。

このようにゴスペルの本義を踏まえ、黒人とキリスト教との歴史的背景を考えると、 このミュージカルのタイトルであり、メインの曲の「サビ」で歌われる、“Mama, I Want to Sing” という歌詞に、ドリス・ウィンター個人を越えた切なる願いが浮かび上がる。

ドリスが歌手を目指したのは、アメリカで黒人が公民権を認められる前のことである。そのおよそ100年前に奴隷制が廃止され、黒人は白人の所有物・財産から一個の自由な人間となった。しかしそれは、黒人が白人と同じ市民・国民としての権利を認められたという意味ではなかった。黒人の白人専用公衆トイレの使用禁止、白人専用レストランへの出入り禁止、大学入学の禁止、黒人と白人との異人種間の婚姻の禁止などの法律が次々と作られた。黒人は市民・国民とは認められず、黒人に対する差別は当然の合法として社会制度の中で行われていた。奴隷から解放されてもなお、黒人は見えない鎖で自由と権利を奪われていた。それがドリスが歌手を目指した時代のアメリカである。ちょうどドリスが下積み時代からスター歌手として知られたのと同時期の1964年に、黒人はようやく公民権を得た。

このアメリカの黒人たちの、奪われた自由と権利の獲得の歴史には、常にキリスト教の信仰があった。黒人たちは共に教会に集まり、神に苦しみからの解放と救いを祈った。キリスト教は、もともと、奴隷制時代、アフリカの母国で自分たちの宗教を持っていた黒人奴隷に白人奴隷所有者たちが「良き奴隷となるよう」教え込んだものである。アメリカの黒人たちがそのキリスト教の教えを心のよりどころにしたのは大きな皮肉である。と同時に、黒人が、アメリカ社会の中で、市民と見なされてこなかったにも関わらず、アメリカの制度・社会を成り立たせる重要な構成員として、奴隷制時代以来社会の中にしっかりと組み込まれてきたという複雑さを物語っている。

とは言え黒人たちは、「白人によるキリストの教え」をそのまま信仰したわけではない。奴隷制時代、黒人奴隷たちは、白人に都合の良い教えを説く白人の牧師を避け、すでに奴隷たちだけで集まり、自分たちのやり方で信仰を行うようになった。情熱的な踊りや歌、叫びを伴う祖国での宗教と、キリスト教とを融合した。従順を強調する白人の牧師に対し、黒人の牧師はモーゼ(イスラエル人を率いてエジプトを脱出したとされる預言者)と解放を説いた(Hine, Hine and Harrold 155)。そうした信仰を世代から世代へ受け継ぎ、進化させていく中で生まれたのが、情熱的に信仰を歌い上げるゴスペル・ミュージックである。

『Mama, I Want to Sing』は、歌手になることを反対する母親に対し、ドリスが「歌いたい、歌手になりたい」と歌う歌だが、上述の文脈で聴くと、ドリス・ウィンター個人の願いを越えた、大きな願いが後ろにあることに気づく。コーラス(主な登場人物/歌手のバックで歌う歌手たち)と共に “Mama, I Want to Sing” と何度も繰り返される叫びには、アメリカの黒人全体の、奪われた自由と権利を欲する切実な願いが聞こえてくる。

筋や歌詞から作者のそうした思いは十分に伝わってきた。しかし残念なことに、今公演の役者の演技・歌からはそれがあまり伝わってこなかった。

30年前、この作品を作ったヴァイとケン夫妻は上演に漕ぎつけるまで大変な苦労をしたそうだ。他に参考文献がないのでWikipediaを引用するが、Wikipediaの記述が正確であるならば、制作当時、“ゴスペルをベースとした作品に十分な観客は望めない” と、“ニューヨークの主たる興行主全てから上演を断られた” という。そのため、夫妻は “私財を投じて当時15年間閉鎖されていたイースト・ハーレムにある座席数632のヘクシャー劇場を借り” 自費で公演を行ったという。

結果はご覧の通りだ。公演は瞬く間に人気を博し、以来30年間多くの観客を魅了してきた。 が、今公演は初演から30年を迎え、彼ら自身が、Next Generation(次世代)と銘打ち、終演後のステージでもヴァイが、「『Mama, I Want to Sing』は世代交代を遂げました!」と言った通り、この30年の間に『Mama, I Want to Sing』は初演当時とは変わってしまったのだろうと思う。

今公演の主役を務めるノエルは、『Mama, I Want to Sing』の公演で成功を収めたヴァイとケンの娘であり、貧しさや苦労を知らずに裕福に育ったはずである。他の出演者と一緒にツアーをし、脚光を浴びながらそれに見合った収入も当然得ていると思われるコーラスの少年少女たち、「ゴスペル・フォー・ティーンズ聖歌隊」も、いわばハーレムの中での「勝ち組」である。そして何より作者のヴァイ自身、30年間で得た富と名誉の中で、自身がハーレムでの生活の中で持ってきた自由と権利への渇望が遠い過去のものになっているのではないか。

私がそう思ったのはある出来事があったためだ。始め私は、筋と歌詞の素晴らしさを理解しながら公演を観て感動できない自分がおかしいのではないかと疑った。私は常々、「本物は無条件に見た者を感動させる」と信じている。しかしパンフレットで三宅祐司さんが "白人の美しい声のミュージカルに比べ黒人のミュージカルにおけるその声は、そのままストレートにハートに来る" ([2])と比較していることもあり、ゴスペルミュージカルとは、私がこれまで観て来たミュージカルとは全く異なるもので、感動できないのは、ゴスペル音楽に慣れ親しんでいない私にこの作品への審美眼が備わっていないせいではないかと思った。しかしある出来事があり、私はやはり自分の感覚が正しいのだろうと思った。2時間の公演に対してわずか1-2分の出来事ではあったが、私に上述の『Mama, I Want to Sing』の変化を推測させるのに十分足りる出来事だった。

30年前、作者のヴァイとケン夫妻にも、出演する役者たちにも、「I Want to Sing」 (歌いたい)と言えるものが確かにあったはずだ。ドリス・トロイの成功物語や、ゴスペルという音楽の魅力だけでなく、彼ら作者・出演者の熱い想い、それこそが観客を惹きつけていたはずだ。三宅祐司さんが、27年前にニューヨークで舞台を見た時、言葉も分からないのに感動して涙が出た、とパンフレットに書いている(2)。言葉の分からない三宅さんを感動させたのは、彼らそれぞれの「歌いたい」熱い想いではないか。

『Mama, I Want to Sing』 は、多くの観客に受け入れられ、彼ら自身が言うように、「次世代」を迎えた。それはいいことではある。しかし一方で、アメリカ全体を見渡せば、黒人差別の問題、経済的・社会的格差という問題は未だ解決に程遠いはずだ。これからの『Mama, I Want to Sing』は、一体何を「歌いたい」のだろう。

<おまけ>

この日は「日本のゴスペルの母」と呼ばれているという亀渕友香さんと、音楽評論家の湯川れい子さんがいらっしゃっていた。お二人ともヴァイに呼ばれてステージに上がられキャストと共に歌ったのだが、ほんの数秒マイクに入った亀渕さんの歌声の力強さ、胸にまっすぐ響く迫力に驚いた。この日一番心に残ったかもしれない・・・。なんとも言えないが、やはり本物は無条件に見た者を感動させるということか。

亀渕友香さんがこの公演について翌日のブログでコメントしていらっしゃった:
MAMA I WANT TO SING|亀渕友香オフィシャルブログ 「発声力。」

湯川れい子さんもTwitterで(微妙に)触れている:
Twitter / yukawareiko: きゃ~っ、思いもかけず呼び上げられたステージ、歌っちゃいまし ...

引用文献:

  • “gospel.” The Oxford Dictionary of English. 電子辞書. [Oxford]: Oxford UP, 2003.
  • “gospel.” The Oxford English Dictionary Online. [Oxford]: Oxford UP. 6 Jan 2014.
  • Hine, Darlene Clark, William C. Hine, and Stanley Harrold. The African American Odyssey. Vol. 1: To 1877. 3rd ed. Upper Saddle River, NJ: Pearson Education, 2006.
  • “Mama, I Want to Sing! (musical).” Wikipedia: The Free Encyclopedia. N.p.: Wikimedia Foundation. 5 Jan 2014. <http://en.wikipedia.org/wiki/Mama,_I_Want_to_Sing!_(musical)>.
  • Singletary, Deborah, 本田裕一郎, 菱川裕之, 太田隆之 and 谷村紀明. Mama, I Want to Sing: The Next Generation. [Tokyo]: n.p., [c.2013]. N. pag. (公演パンフレット)

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シェイクスピア 『十二夜』|河田園子演出

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しんゆりシアター『十二夜:お好きなように』

作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:河田園子
翻訳:松岡和子
出演:岡野真那美(ヴァイオラ)、佐古真弓(オリヴィア)、柳瀬亮輔(道化)、他
日時:2013年11月3日(日) 14:00開演 (千秋楽)
場所:川崎市アートセンター アルテリオ小劇場

<あらすじ>

双子の兄妹セバスチャンとヴァイオラの乗った船が嵐に遭い難破。ヴァイオラはイリリアの海岸に打ち上げられる。兄セバスチャンの消息が分からないまま、ヴァイオラは男装してシザーリオと名乗り、ここイリリアの公爵オーシーノにお小姓として仕えることにする。

公爵は伯爵の娘であるオリヴィアに求婚していたが拒まれ続けていた。そこで新たに小姓となったシザーリオ(ヴァイオラ)に、改めて自分の想いを届ける役を与え、オリヴィアの元へ遣わす。しかし使者としてやってきたシザーリオと面会したオリヴィアは、シザーリオに恋してしまう。ヴァイオラの男装により、オリヴィアは男性に見せかけて実は女性のシザーリオに恋し、ヴァイオラは男性として仕えながら公爵に恋心を寄せ、公爵はそのヴァイオラを小姓としてオリヴィア への使者とする、という複雑な関係ができる。

しかしそこへ消息不明だったヴァイオラの兄セバスチャンが生きて同じイリリアにたどり着き、外見がそっくりのシザーリオとセバスチャンの取り違えが起こって更なる混乱が起こると共に事態は急展開する。最後は全てが明らかになり、オリヴィアはセバスチャンを受け入れ、公爵はヴァイオラを受け入れて、めでたく 二組のカップルが誕生する。

<感想>

今回の公演は、道化(あらすじに挙げていないが登場人物の一人)にとても意識を置いていたのが印象的だった。道化を効果的に用い、そこから全体に祝祭ムードが広がって楽しい演劇となっていた。

道化のフェステはオリヴィアの家のお抱えの道化=ジェスター(シェイクスピアの時代のイギリスでは、宮廷や身分のある人の家では道化を抱えており、この道化を特にコート・ジェスターと言った。)であるが、今回の公演では、道化は舞台自体の道化、職業としての道化役=クラウンでもあることを意識して演出していた。

今公演では柳瀬亮輔さんという俳優さんが道化を演じているが、恐らく柳瀬さんは道化を職業としているわけではないと思う。(念のためHPを確認してみた。)しかし、シェイクスピアの時代においては、クラウン(道化)とは職業であり、様々な役をこなす俳優とは別であった。今回の公演でも、劇中でオリヴィア家お抱えの道化フェステを演じる道化が劇の前にクラウンとして現れ、飲食禁止であることや携帯の電源を切ることを観客に対しておどけてお願いし、そして最後に(正確なセリフは忘れたが)、「これから芝居が始まるよ。」と言って幕が上がった。オリジナルの台本には、フェステ役の道化が劇の前に登場することは書かれていないので、演出家が当時の道化のあり方を意識して付け加えたのだと思う。

道化というのは「ハレ=非日常・祝祭状況」を体現した存在である。道化的存在の歴史は古く、記録に残っているものだけでも紀元前5000年のエジプトにまで遡ることができるが、ヨーロッパにおいていわゆる「道化」のイメージのもととなったのは、特にフランスで盛んに行われた「道化祭」というキリスト教の修道院で行われた祭である。修道院の僧侶たちが一年に一度羽目を外して道化となり、“最下級の僧侶が最高の司教に選ばれ、釣香炉の代わりにソーセージを振り […] 祭文が後から逆に唱えられ” るという「あべこべ」のミサを行い、その後には “飲めや歌え、賭けごとや仮装行列” などの乱行が続いた。厳格な僧侶の日常を真逆にした祭である。観客はそれを大いに楽しんだため、この「道化祭」は教会を離れて様々な人々によって興行化され、巡業によって各地にそのイメージを広めていった(高橋16-7)。

今回の公演は、道化そのものだけでなく、それが体現するところの非日常・祝祭状況も含めて大切にして演出されていたと感じた。

例えば、この劇には上記のいわゆる「お姫様や王子様たち」の出てくるメインの筋の他にもう一つ、お姫様の侍女や叔父、その遊び仲間などコミカルな登場人物 による副筋があるのだが、そのメンバーが集まる場面で、真夜中に皆で音楽に合わせて踊る、楽しいドンチャン騒ぎが舞台上で繰り広げられていた。オリジナル の台本では騒ぐのは酔っ払った叔父とその友達だけで、侍女はそれをたしなめているので、これは演出家がその場面を「お祭り」的に改変したものである。また、メインの筋に出てくる「お姫様や王子様たち」は本来まじめな役どころであるが(筋はドタバタでも本人たちは至って真面目)、この公演では、演出なのか 役者の裁量なのか、「兄の喪に服するために男性との面会を一切断つ」と喪服姿でつれなく言いながらその舌の根も乾かぬうちにシザーリオに恋をして翌日から フリフリの服を着て花を摘み、懸命にシザーリオの気を惹こうとするオリヴィアが、愚かしくも愛すべき人間としておもしろくコミカルに描かれている。加えて、この劇では道化のフェステが歌を歌う場面が多いのだが、今回の公演では道化役の役者が楽器を弾くことができ、自ら楽器(ギター?)を弾いていたため、 その楽しさもぐんと増していた。主筋、副筋、道化、のそこここに、「非日常的な楽しさ」がちりばめられていた。

現代の私たちには、双子とは言え兄と男装したその妹を取り違えるとか、オリヴィアが男装したヴァイオラに恋をしておきながら見た目が同じというだけで全く 別人の兄と結婚するとか、実際は女性だったとは言え公爵が今まで自分のお小姓として仕えていた少年を妻として受け入れるとか、かなりめちゃくちゃな筋だ が、そうして劇全体が祝祭ムードに包まれているおかげで、全てを「だってラブ・コメディー(現代の意味での)だもの」と楽しく受け入れられる。地域の小さな劇場で、このようないい舞台を見ることができるとは思っていなかった。嬉しかった。

それで道化が大好きな私は、ここまで道化を意識して扱ってくれた演出家に対して、もしできるのならば、という欲が、二つ湧いた。

一つは、劇の最後、道化が舞台を締めくくる部分。この公演は最初に道化が幕を開けたように、最後も道化が幕を閉めて、枠物語(最初と最後に現実の世界があり、物語がその枠の中にあるような作品)のような体裁をとっている。最初の部分はオリジナルの台本にはないが、最後の部分はオリジナルにも載っている。道化が歌を歌い、最後2行のフレーズで「これで芝居はおしまい。」というような歌詞を歌い、芝居の世界から現実の世界へと戻して終わる。その2行とは、正確 には:

          But that’s all one, our play is done,
          And we’ll strive to please you every day.
                                                            (五幕一場406-7行) 

である。直訳してみると、「これで芝居は終わりだけれども、これからもみなさんを満足させられる(ような芝居を作る)ように日々奮闘します。」と言っている。

今回の公演では、正確には忘れたが、「これで芝居は終わりだよ。」というような感じでやわらかく丸く締めくくっていたと思う。これは訳者である松岡和子先生 の訳出不足・・・というわけではないと思うので、演出家が祝祭ムードを優先して敢えて外したか、あまり気にしなかったか、私が気にし過ぎか、どれかだと思うが、この2行を私が読むとどうしても “strive” という単語が気になってしまう。

ジーニアス英和大辞典によると、striveというやや固い言葉には、1. [正式]~しようと努力する、骨折る、励む という意味の他に、古い時代の使われ方として、2. [古] 戦う、抗争する [正式]奮闘する という意味がある。私は「奮闘する」と訳したが、恐らく当時、strive を「奮闘する」という意味で使っていたとしても、そこにはその時代のもう一つの用法「戦う、抗争する」という意味が語感として残ったと思う。

そう思ってこの2行を見ると、生々しい、とまでは言わなくても、芝居が終われば一役者となる登場人物、そしてその劇団の現実味の詰まった舞台裏の姿、恐らく当時の観客とそうした生の役者・舞台との距離の近さ、みたいなものが表れていて、興味深い。しかもそれを言うのが「道化」というのがまた良い。道化は先述の職業云々のくだりにもあるように、舞台の上では芝居の中でも外でも道化であり、役者なのか道化なのか、観客との距離があいまいな存在のはずだからだ。

現代では俳優は見る者に夢を与える存在で、その舞台裏や俳優と一般人(観客)との距離はずいぶんと遠い。 演出家がこの劇で道化が口にする “strive” という言葉をどう扱うか、できれば見てみたかった。

もう一つは、道化の「もう一つの役割」について。この劇には「お姫様や王子様たち」が出てくる主筋と、コミカルな登場人物が出てくる副筋とがあると前述し た。その二つの筋の間を自由に行き来しているのが道化:フェステである。道化フェステには祝祭の体現の他に、違う筋と筋の間を自由に行き来できる存在、 というもう一つの役割がある。

道化は誰からも何からも束縛されず、自由な存在である。だから、コミカルな登場人物たちが結束して執事マルヴォーリオをだまし、いじめて楽しんだ時も、発案の時にはその場にいたのに、いざ実行の場面ではフェステは登場せず、フェービアンという今まで出て来なかったオリヴィア邸の召使いがいきなり出てきて、 そこからマライア、サー・トービー、サー・アンドルーというコミカルメンバーと共にマルヴォーリオいじめが始まる。道化は誰からも束縛されない代わりに誰にも与しないのである。シェイクスピアがそれについてどの程度意識して書いていたのかは分からないが、そう考えれば説明がつく。

そしてここからは少し理論的になってしまうのだが、主筋にも副筋にも属せず、別の世界から突然現れたセバスチャン(消息のわからなかったヴァイオラの双子の兄)が劇の筋と合流できるのは、この道化の自由さのおかげである。

フェステは主筋と副筋の間を自由に行き来すると書いたが、つまり何からも縛られない道化は、どんな場所・世界・人との間も自由に行き来することができる。 フェステは劇の既存の筋に存在する登場人物の中で初めてセバスチャンと接する人物である。フェステがセバスチャンと出会い、ヴァイオラ扮するシザーリオと間違えることで、初めてセバスチャンは劇の筋に入れてもらうことができる。フェステがいなければ、(理論的には)セバスチャンはオリヴィアやヴァイオラの 存在する世界と合流できず、そしてヴァイオラ、オリヴィア、公爵の間のもつれた糸のような関係を解き、セバスチャン‐オリヴィア、公爵‐ヴァイオラという 二つのカップルの誕生の大団円を迎えることもできないのである。

しかし、今回の公演では、フェステとセバスチャンの出会いの場面が省略されていたような気がする(記憶が間違っているかもしれないが。観劇中「あれ?」と 思ったような覚えがあるのだが、なにしろ観劇後に読み返すまで、『十二夜』の原文自体もう10年以上読んでいなかったので、その場ではあまり自信がなく、 記憶もあいまいになってしまった)。どちらにしろ、ここまで道化にこだわった演出家が、この道化の「もう一つの役割」についてどのくらい意識していたか、 どう考えていたか、聞いてみたかった。

引用文献:

  • Shakespeare, William. Twelfth Night. Ed. J. M Lothian and T. W. Craik. Arden Third Series. London: Methuen, 2000.
  • “strive.” ジーニアス英和大辞典. 電子辞書. 東京: 大修館, 2005.
  • 高橋, 康也. 道化の文学: ルネサンスの栄光. 東京: 中央公論社, 1977.

  1. Twelfth Night(アーデン版): 『十二夜』の原文。シェイクスピアの作品(本)には「オーソライズド・テクスト」と呼ばれる「公式」な本とそうでないものがある。「アーデン」や「ニューケンブリッジ」がオーソライズド・テクストとして有名。『十二夜』はアーデン版の評価が高い。
  2. 小田島雄志訳『十二夜』: 『十二夜』の日本語訳本。今公演では松岡和子先生が意欲的に取り組んだ最新の訳本を使っているが、この分野の現役の第一人者、小田島雄志先生の翻訳はすでに評価が定まっており、誰もが安心して読める。多くの人に愛されている訳本。
  3. 高橋康也著『道化の文学』(絶版): 故高橋康也先生は日本を代表するシェイクスピア研究者。特にその深い道化の研究によって一分野を切り開いた。 

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